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ジョン・フレッチャー(John Fletcher, 1579年12月 - 1625年8月)は、ジャコビアン時代のイングランドの劇作家。ウィリアム・シェイクスピアの後を受けて、国王一座の座付作家となった。当時としては多作かつ影響力の大きい劇作家だった。存命中ならびに王政復古初期にはシェイクスピアと並び称された。しかし、その後は次第に忘れられ、現在ではエリザベス朝時代から王政復古期への移行期の人物として知られるにとどまっている。 ==生涯== フレッチャーは1579年12月(洗礼は12月20日)、サセックスのライ(Rye)に生まれた。 父親のリチャード・フレッチャー(Richard Fletcher)は野心的かつ成功した聖職者で、エリザベス1世の従軍牧師やピーターバラ大聖堂の主任司祭(Dean of Peterborough)、ブリストル主教(Bishop of Bristol)、ウースター主教(Bishop of Worcester)、ロンドン主教(Bishop of London。ただし死ぬまでの短い期間)を歴任した。フォザリンゲイ(Fotheringhay)でのスコットランド女王メアリーの処刑の時、リチャード・フレッチャーは「処刑台の階段に跪き、大きな声で長々と祈り始めた。間延びした喋り方と修辞的なスタイルで。まるで歴史のページに自分のやり方を刻もうと決めたかのようだった」。女王が死んだ時にはこう叫んだ。「女王のすべての敵は死ぬがいい!」。女王が反対した結婚のことで女王に厭われた直後の1596年、リチャード・フレッチャーはこの世を去った。リチャード・フレッチャーにはかなりの負債を残していた。ジョンはじめ8人の子供たちは詩人で小役人だった叔父のガイルズ・フレッチャー(Giles Fletcher)に預けられた。パトロンだったロバート・デヴァルーの謀反の後、叔父のコネはプラスどころかマイナスになったようである。 1591年、ジョン・フレッチャーは11歳でケンブリッジ大学のコーパス・クリスティ・カレッジに入学したようである。学位を取得したかについては定かではないが、教会で働けるようになったことを示唆する証拠は残っている。大学時代のことはほとんど知られていないが、大学才人たちが辿った道(大学から成長中のロンドンの商業演劇への道)にフレッチャーが続いたのは明らかである。1606年、フレッチャーはチャペル・ロイヤル少年劇団(Children of the Chapel)の作家として、続いてブラックフライヤーズ座(Blackfriars Theatre)の上演で頭角を現した。ボーモント&フレッチャーの1647年の「二折版(フォリオ)」の中のリチャード・ブルーム(Richard Brome)の韻文による推薦の辞は、フレッチャーをベン・ジョンソンの劇団にいたとしている。ジョンソンのウィリアム・ドラモンド・オブ・ホーソーンデン(William Drummond of Hawthornden)へのコメントもこの主張を裏付けているが、いつから親交が始まったのかはわかっていない。フレッチャーの作家歴の初めは、フランシス・ボーモント(Francis Beaumont)との共作だった。二人は10年近く、最初は少年劇団のために、その後は国王一座のために、一緒に仕事をした。ジョン・オーブリー(John Aubrey)の伝える伝説(あるいは創作)によると、二人はバンクサイド(Bankside)に共に暮らし、着る物は共有し、「家の中に二人の間の1人の娘(女中、売春婦の意味もある)」がいたという。この家庭内取り決めは(もし存在したのであればだが)1613年のボーモントの結婚で終わりを告げた。劇作のパートナーシップはおそらく同じ年、ボーモントが病気(脳卒中と思われる)にかかった時に終わった。 この頃にはフレッチャーの活動は、国王一座との緊密な関係に移行していた。シェイクスピアと『ヘンリー八世』、『二人の貴公子』、そして失われた『カルデーニオ』を合作したとされている。この時期、フレッチャーが単独で書いた作品には、『じゃじゃ馬ならし』の続編にあたる『女の勝利またの名じゃじゃ馬馴らしが馴らされて』がある。シェイクスピアの死後は、フレッチャーは国王一座の専属座付作家となったようである。その時から死ぬまでの9年間、フレッチャーは国王一座のためだけしか作品を書かなかった。しかし、単独で書くだけでなく、ネイサン・フィールド(Nathan Field)、続いてフィリップ・マッシンジャー(Philip Massinger)と合作も続けた。マッシンジャーはフレッチャーを継いで国王一座の座付作家となった。フレッチャーの人気は存命中続いた。1621年の冬には、フレッチャーの3本の芝居が宮廷で上演された。 フレッチャーは1625年にペストで亡くなった。8月29日にサウスウォーク大聖堂 (Southwark Cathedral) に埋葬されたが、正確な埋葬場所はわからない。1つの墓をフレッチャーと(同じ聖堂に埋葬された)マッシンジャーのものと示すアストン・コカイン(Aston Cockayne)による言及がある。 フレッチャーが得意とした分野は、王政復古期のチャールズ1世の治世に劇作家たちに強い影響を及ぼした悲喜劇と風習喜劇(Comedy of manners)だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・フレッチャー (劇作家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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